近藤真彦と五木ひろしが語った1987年レコ大!1票差の明暗と本音

1987年の日本レコード大賞。近藤真彦さんの「愚か者」が大賞に輝きましたが、実は五木ひろしさんの「追憶」との差はわずか1票でした。

近藤さんは後年「ものすごいプレッシャーでした」と回想。一方の五木さんは、50年以上の歌手人生でも特に悔しかった出来事として、この年のレコード大賞を挙げています。

受賞した側と逃した側。本人たちが何を語ってきたのか、当時の結果とともに振り返ります。

目次

近藤真彦は1987年のレコ大について何と言っている?

近藤真彦さんは2020年の『女性自身』のインタビューで、1987年のレコード大賞について語っています。

当時はほかの賞レースでも結果を残していたものの、レコード大賞だけは難しいと言われていたそうです。近藤さん自身、強いプレッシャーを感じていたと振り返りました。

「愚か者」で大賞を受賞したのは、当時のジャニーズ事務所にとって初めてのこと。近藤さんによれば、ジャニー喜多川さんとメリー喜多川さんも大変喜んでいたといいます。

さらに印象的なのが、事務所の2人は受賞したタレントではなく、賞を取れなかった側に寄り添うことがあったという話です。近藤さんが賞を取ったときは田原俊彦さんのところへ、田原さんが取ったときは近藤さんと食事をしていたそうです。

近藤さんの証言から伝わるのは、大賞を獲得した喜びだけではありません。賞レースの重圧と、そのなかで支えてくれた人たちの記憶も強く残っているようです。

出典:女性自身・近藤真彦インタビュー

受賞の陰には母親の遺骨盗難事件も

この年のレコード大賞には、もう一つ忘れられない出来事がありました。亡くなった近藤さんの母親の遺骨が盗まれ、事務所に大賞受賞の辞退を求める脅迫文が届いた事件です。

スポーツニッポンの回顧記事でも触れられており、事件が世間に明らかになったのは翌1988年でした。

華やかな授賞式の裏側で、近藤さんは家族に関わる深刻な問題も抱えていたのです。

事件の経緯は近藤真彦の母親の遺骨盗難事件についての記事で詳しく紹介しています。

五木ひろしは「最も悔しかった」と語っていた

五木ひろしさんは2023年8月31日公開の『GOETHE』のインタビューで、長い歌手人生のなかでも1987年のレコード大賞が特に悔しかったと明かしています。

五木さんがこの年に発表したのは「追憶」。大きな支持を集めた曲で、五木さん自身も大賞への期待を抱いていました。

しかし、受賞したのは近藤さんの「愚か者」。五木さんは結果を受け止めきれず、発表時には拍手もできなかったと振り返っています。

五木さんはすでに「夜空」と「長良川艶歌」でレコード大賞を受賞した実績のある歌手でした。それでも、1987年の敗戦は特別に悔しかったようです。

出典:GOETHE・五木ひろしインタビュー

近藤真彦を恨んでいたわけではない

ここで誤解したくないのは、五木さんが近藤さん本人を恨んでいたわけではないという点です。

同インタビューで五木さんは、近藤さん個人への悪感情を否定しています。若手歌手たちとも、当時の歌番組の楽屋などを通じて交流がありました。

むしろ五木さんが語っているのは、歌手として賞を目指す厳しさや、大手芸能事務所に所属しない立場で戦ってきた経験です。

前日の『GOETHE』のインタビューでも、個人事務所で活動してきたことや、大衆の支持を大切にしてきたことを語っています。

出典:GOETHE・五木ひろしが語る賞レース

こうした発言は当時の芸能界を考えるうえで興味深いものですが、1987年の審査に不正があったと証明するものではありません。

1987年のレコード大賞は9対8!わずか1票差だった

1987年12月31日の第29回日本レコード大賞では、近藤真彦さんの「愚か者」が大賞を受賞しました。

2012年のスポーツニッポンの回顧記事によれば、最終的には五木ひろしさんとの決選投票となり、審査員17人による投票は近藤さん9票、五木さん8票。

たった1票の差です。

もし1人の審査員が反対に投票していれば、結果は逆転していました。五木さんが長年にわたって悔しさを忘れられなかったのも、この接戦を知ると理解できる気がします。

「愚か者」は伊達歩さんが作詞、井上堯之さんが作曲した楽曲。アイドルとして人気を集めていた近藤さんが、大人の男性の弱さや後悔を歌った作品です。

一方の「追憶」は、ベテランの五木さんが歌唱力と表現力を発揮した楽曲でした。

もちろん、実際の審査員がどの要素を決め手にしたかは、投票結果だけではわかりません。それでも、若手アイドルの新たな挑戦と、ベテラン歌手の充実した歌唱が最後まで競り合った年だったことは確かです。

出典:スポーツニッポン・1987年レコ大回顧、日本作曲家協会・第29回受賞記録

中森明菜の3連覇への思いも重なる

1987年のレコード大賞には、もう一人、忘れてはならない歌手がいます。中森明菜さんです。

明菜さんは1985年に「ミ・アモーレ」、1986年に「DESIRE -情熱-」で大賞を受賞。1987年は「難破船」で3連覇を目指す立場でした。

2026年10月24日放送のNHK『SONGSスペシャル』では、当時「難破船」で3年連続の大賞を取るつもりだったという思いも語りました。

近藤さんは大賞受賞の重圧と喜びを、五木さんは1票差で逃した悔しさを、明菜さんは3連覇への思いを抱いていたわけです。

同じ1987年の賞レースでも、3人の証言を並べると、まったく違った景色が見えてきます。

詳しくは中森明菜が1987年のレコ大で3連覇を逃した背景もあわせてご覧ください。

考察|1987年のレコ大は不公平だったのか?

これほどの接戦で、しかも五木さんが後年まで悔しさを語っているとなると、「審査は公平だったのか」と疑問を持つ人もいるでしょう。

ただ、投票が9対8だったことは接戦の証拠であって、不正の証拠ではありません。

五木さんが個人事務所の立場で賞レースに難しさを感じていたことと、1987年の大賞が不正に決まったかどうかは、分けて考える必要があります。

むしろ興味深いのは、五木さんが近藤さん個人を批判していないことです。自分が受賞したかったという率直な気持ちを語りながら、相手の歌手への感情とは切り離しているのです。

近藤さんの証言にも、五木さんを負かしたという勝ち誇った印象はありません。強い重圧を乗り越えたことや、周囲の人たちが喜んでくれたことを語っています。

一方は人生の大きな栄誉として、もう一方は忘れられない悔しさとして記憶している。そこに1987年のレコード大賞のドラマがあるのでしょう。

まとめ|近藤真彦と五木ひろし、それぞれの1987年

近藤真彦さんと五木ひろしさんは、1987年のレコード大賞について、それぞれ後年に率直な思いを明かしていました。

近藤さんにとっては、プレッシャーを乗り越えてつかんだ大賞。五木さんにとっては、わずか1票差で逃した忘れられない賞でした。

どちらの証言も、当時の賞レースが歌手にとってどれほど大きな意味を持っていたかを伝えています。

そして2026年、中森明菜さんが3連覇への思いを語ったことで、1987年のレコード大賞は新たな視点から振り返られることになりました。

約40年が過ぎても、当事者たちの言葉からあの日の緊張感が伝わってくる。そんな賞レースは、今ではなかなかありません。

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