1977年の日本レコード大賞で、沢田研二さんの受賞ステージが思わぬ流血騒動になったことをご存じでしょうか。
「勝手にしやがれ」で大賞を獲得した沢田さんを、かつてのザ・タイガースの仲間たちが祝福。ところが、その最中に森本太郎さんが額から出血する事故が起きました。
原因は、沢田さんが手にしていた受賞記念のブロンズ像。実はこのハプニング、日本レコード大賞の主催団体も公式サイトに記録しています。
何が起きたのか、事故の後日談と、紅白歌合戦まで駆け抜けた当日の舞台裏を振り返ります。
沢田研二のレコ大で流血!森本太郎の額にブロンズ像が当たった
1977年12月31日、第19回日本レコード大賞が開催されました。この年の大賞に選ばれたのは、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」です。
受賞を祝おうと、ステージにはかつて所属していたザ・タイガースの仲間たちが駆けつけました。グループの解散から約6年。かつての仲間が大賞を手にする、感慨深い場面だったはずです。
ところが、祝福の最中に思いがけない事故が発生します。
沢田さんが持っていた受賞記念のブロンズ像が、元ザ・タイガースの森本太郎さんの額に強く当たり、出血してしまったのです。
日本作曲家協会の公式記録によると、関係者は大晦日に診察してくれる医師を探して大慌て。幸い、けがは大事に至らなかったそうです。
ここで誤解したくないのは、流血したのは沢田研二さん本人ではなく、森本太郎さんだったということ。また、故意に傷つけた事件ではなく、祝福の場で起きたハプニングとして記録されています。
大賞受賞の喜びに包まれるはずの舞台が、突然の騒ぎに。生放送の授賞式らしい、予想外の出来事でした。
翌日は海外旅行!プロデューサーが空港まで謝罪に
この事故には、なんとも意外な後日談があります。
森本太郎さんは翌1978年1月1日、海外旅行に出発する予定でした。主催団体の記録によれば、プロデューサーが空港まで見送りに行き、謝りながら送り出したといいます。
大晦日に額を負傷し、元日には海外へ。森本さんにとっても、忘れられない年越しになったのではないでしょうか。
この一件は、日本作曲家協会「第19回日本レコード大賞」のページで紹介されています。単なるネット上の噂ではなく、主催団体が伝えているエピソードなのです。
なぜザ・タイガースの仲間が沢田研二を祝福した?
そもそも、なぜ沢田さんの受賞ステージにザ・タイガースのメンバーが集まったのでしょうか。
沢田さんはソロ歌手として大成功する以前、1960年代後半のグループサウンズブームを代表するバンド「ザ・タイガース」のボーカルでした。
1967年にデビューしたザ・タイガースは、「僕のマリー」「シーサイド・バウンド」「君だけに愛を」などのヒット曲を生み出し、若い世代を中心に熱狂的な人気を集めます。
ジュリーの愛称で親しまれた沢田さんは、その中心的な存在でした。
1971年にザ・タイガースが解散した後、沢田さんはソロ活動でさらに飛躍。一方、事故に遭った森本太郎さんは、ザ・タイガースでギターを担当していたメンバーです。
一緒に音楽を作ってきた仲間が、日本レコード大賞という大きな栄誉をつかむ。その瞬間を祝福するために駆けつけたメンバーたちの気持ちを思うと、事故が起きた場面にも違った印象を受けます。
なお、後に登場する沢田さんの元マネージャー・森本精人さんと、ザ・タイガースの森本太郎さんは別人です。
1977年の沢田研二は絶頂期!受賞後は紅白へ大移動
1977年の「勝手にしやがれ」は、沢田研二さんを語るうえで欠かせない代表曲です。
作詞は阿久悠さん、作曲は大野克夫さん、編曲は船山基紀さん。帽子を投げる印象的なパフォーマンスも話題となり、オリコン週間ランキングで5週にわたって1位を記録しました。
この年の日本レコード大賞の平均視聴率は50.8%。番組史上最高の数字として知られています。日本中が歌謡界のスターに注目していた時代でした。
「頂点に行ったらあとは落ちる」元マネージャーが語る意外な反応
実は、沢田さん自身は大賞受賞を手放しで喜んでいたわけではなかったようです。
2023年のラジオ関西のインタビューで、当時のマネージャー・森本精人さんは、受賞が決まって祝福の言葉をかけたところ、沢田さんから翌年のことを考えるよう叱られたと振り返っています。
頂点に立ったからこそ、次をどうするかが大事。そんな厳しい姿勢が、翌年以降もヒット曲を生み出す原動力になったのかもしれません。
森本さんによると、帽子を投げる動きやカメラに向かって指をさす振り付けも、テレビでどう見せるかを考え抜いた演出だったそうです。
レコ大終了から紅白開始まで、わずか5分
しかも、大晦日の沢田さんにはもう一つの大仕事が待っていました。NHK紅白歌合戦への出演です。
当時のレコード大賞は午後8時55分まで。紅白歌合戦は午後9時開始で、間にはわずか5分しかありませんでした。
森本精人さんは2023年のインタビューで、授賞式後にタクシーでNHKホールへ急ぎ、運よく信号が青続きだったため、紅白のオープニングに間に合ったと語っています。
レコ大での流血ハプニングに、紅白への大移動。1977年の大晦日は、沢田さんにもスタッフにも、実に慌ただしい夜だったことでしょう。
翌1978年も活躍!ピンク・レディーとレコ大を彩る
翌1978年、日本レコード大賞を受賞したのはピンク・レディーの「UFO」でした。
一方、沢田さんは「LOVE(抱きしめたい)」で最優秀歌唱賞を受賞。同年の紅白歌合戦では白組のトリも務めました。
1977年の「勝手にしやがれ」から、1978年の「サムライ」「ダーリング」「LOVE(抱きしめたい)」へ。沢田さんの勢いは止まりませんでした。
そんな黄金時代の沢田さんについては、当サイトの沢田研二さんの現在を取り上げた記事でも紹介しています。
まとめ:レコ大の流血騒動は仲間の祝福中に起きた事故
1977年の日本レコード大賞で起きた流血騒動は、沢田研二さんが「勝手にしやがれ」で大賞を受賞した際、祝福に駆けつけた森本太郎さんの額にブロンズ像が当たってしまったというものでした。
関係者が医師を探す騒ぎになりましたが、幸い大事には至らず、翌日には森本さんが海外旅行に出発したという後日談も残っています。
かつてのザ・タイガースの仲間たちとの再会、念願の大賞、そして紅白歌合戦への慌ただしい移動。昭和の歌謡界の熱気が伝わるエピソードです。
華やかな受賞シーンの裏に、こんな思いがけない出来事があったとは。半世紀近くたった今も語り継がれるのは、当時の沢田研二さんがそれほど大きな存在だったからなのかもしれません。