椎名林檎さんと十八代目・中村勘三郎さんには、かつて「男女の関係だったのではないか」とする報道がありました。
きっかけの一つとなったのが、勘三郎さんの死去直後に『週刊新潮』が掲載した2人の写真です。後追い報道では「手つなぎデート写真」と伝えられています。さらに椎名さんは、2012年に勘三郎さんの自宅で営まれた密葬にも黒い着物姿で参列しました。
ただし、2人が交際や不倫を公に認めた事実は確認できません。一方で、仕事を通じた継続的な交流があり、勘三郎さんの死後も椎名さんがその影響について語っていることは確認できます。事実と当時の報道を分けながら、2人がどのような関係だったのかを考えます。
椎名林檎と中村勘三郎はどんな関係だった?
先に整理すると、椎名林檎さんと中村勘三郎さんが表現者として深く交流していたことは、公式資料や本人の発言から確認できます。
一方、恋愛関係については『週刊新潮』などが報じていますが、本人たちが交際を認めたわけではありません。そのため「不倫関係だった」と事実として断定することはできません。
2人の接点が広く知られるようになったのは2006年です。同年1月27日放送のフジテレビ系『僕らの音楽』に東京事変が出演し、対談相手として勘三郎さんが登場しました。
さらに2007年、勘三郎さんが出演したコクーン歌舞伎『三人吉三』で椎名さんが音楽を担当。楽曲「玉手箱」を書き下ろしています。
当時、勘三郎さんは椎名さんが曲を担当したことを公演の大きな特徴として挙げていました。椎名さんも後のインタビューで、劇中でエレキギターを使った場面について、勘三郎さんのアイデアだったと説明しています。
単なる芸能人同士の顔見知りではなく、お互いの表現に踏み込む形で仕事をしていたことが分かります。
週刊新潮は2人の写真を掲載、後追い報道では「手つなぎデート」
2人の関係を考えるうえで避けて通れないのが、2012年12月の『週刊新潮』による報道です。
勘三郎さんは2012年12月5日、57歳で亡くなりました。その直後に発売された『週刊新潮』は、「『中村勘三郎』最後の女は『石川さゆり』その前に『椎名林檎』」という見出しで女性関係を特集しました。
この特集が掲載されたこと自体は、新潮社の公式バックナンバーや書誌情報から確認できます。
同誌は2人の写真も掲載しており、後追い報道では過去の「手つなぎデート写真」と紹介されています。写真の撮影時期については、後追い記事などで2008年ごろと伝えられていますが、現在確認できる新潮社の公式バックナンバーでは撮影時期までは確認できません。
したがって、ここから確実に言えるのは『週刊新潮』が2人の親密な関係を示唆する記事と写真を掲載した、というところまでです。
親密な内容とされるメールも報道
当時の『週刊新潮』を紹介した報道では、椎名さんから勘三郎さんに送られたとするメールについても取り上げられています。
その中には「世界で一番幸せな女です」という趣旨の言葉があったと報じられました。また『週刊新潮』は、勘三郎さんがそのメールを知人に見せていたとも伝えています。
ただし、これはあくまで週刊誌による報道です。メールそのものを現在確認できるわけではなく、当事者が内容や男女関係を認めたものでもありません。
そのため、メールを「交際の証拠」とするのではなく、当時そのような親密さを示唆する報道があった、と捉えるのが適切でしょう。
勘三郎の密葬に椎名林檎が黒い着物で参列
勘三郎さんが亡くなった6日後の2012年12月11日、東京都内の自宅で告別式が密葬として営まれました。
デイリースポーツは、この密葬に椎名林檎さんが黒い着物姿で訪れたことを写真付きで報じています。
密葬には松本幸四郎さん、中村吉右衛門さん、中村獅童さん、野田秀樹さん、宮藤官九郎さん、大竹しのぶさん、大地真央さんら、多くの関係者が参列。別の同紙記事では、関係者約500人が参列したと報じられています。
ここで注意したいのが、「黒い着物=特別な男女関係の証拠」ではないことです。
黒い和装の喪服は葬儀における正式な装いです。服装だけから恋愛関係を推測することはできません。
確認できる事実は、椎名さんが勘三郎さんの自宅で営まれた密葬に、歌舞伎関係者や親交のあった著名人らとともに参列したということです。少なくとも、勘三郎さんを直接見送るほどの交流が続いていたことは分かります。
勘三郎の死は椎名林檎に何を残したのか
2人の関係を考えるうえで、週刊誌報道以上に興味深いのが勘三郎さんの死後です。
椎名さんは2014年の音楽ナタリーのインタビューで、自身の楽曲「ありあまる富」について語る中、フジファブリックの志村正彦さんとともに勘三郎さんの死に言及しています。
身近な人との別れや東日本大震災などを経験する中で、流行歌手として歌い続けることへの意識について語っていました。
そして2023年にも、勘三郎さんの名前が登場します。
演出家・根本宗子さんとの対談で『三人吉三』を振り返った椎名さんは、勘三郎さんが時代や観客の気持ちを意識しながら表現を作っていたことに触れ、自分たちはそこから受け取ったものを持ち続けなければならない、という趣旨の発言をしています。
2007年の仕事から約16年、勘三郎さんが亡くなってから約11年後の発言です。
ここから見えてくるのは、恋愛関係だったかどうかとは別に、勘三郎さんが椎名林檎さんの表現者としての人生に強い印象を残した人物だったということではないでしょうか。
2人の関係が椎名林檎の作風を変えた可能性は?
SNSでは近年、「勘三郎さんとの交流以降、椎名林檎さんの表現がより日本的・伝統的な方向へ進んだのではないか」という見方も出ています。
時系列だけを見ると興味深いものがあります。椎名さんは勘三郎さんとの交流を通じ、歌舞伎という伝統芸能の制作現場に実際に参加しました。
『三人吉三』では、古典の世界にエレキギターを組み合わせる試みにも関わっています。さらに2023年になっても、その経験を単なる過去の仕事としてではなく、自分が受け取った表現者としての考え方と結びつけて語っています。
そのため、勘三郎さんとの交流が椎名さんのその後の創作に何らかの刺激を与えた、と考えることはできそうです。
ただし、椎名さんの日本文化や歌舞伎への関心そのものを、すべて勘三郎さんとの出会い以降の変化とする根拠はありません。
「勘三郎さんとの出会いで椎名林檎が日本的になった」と単純化するのではなく、もともとあった関心と勘三郎さんとの交流が重なり、実際の歌舞伎制作に参加する機会につながった、と見る方が自然でしょう。
結局、椎名林檎と中村勘三郎は恋愛関係だったのか
ここまでの情報は、確認できる事実と当時の報道に分けて考える必要があります。
事実として確認できるのは、2006年の対談、2007年の『三人吉三』での仕事、2012年の密葬参列、そして勘三郎さんの死後も椎名さんがその影響について語っていることです。
一方、男女関係について確認できるのは、『週刊新潮』が女性関係を扱う記事として2人を取り上げ、写真や親密な内容とされるメールについて報じたことまでです。
2人が実際に交際していたのか、不倫関係だったのかについて、本人たちが認めた事実は確認できません。
つまり「親しかったこと」と「恋愛関係だったこと」は分けて考える必要があります。
ただ、仕事を通じた交流が一過性ではなく、勘三郎さんの死後10年以上たっても椎名さんがその表現姿勢について語っている点は印象的です。
恋愛だったのか、強い友情や敬愛だったのか。その答えを断定することはできませんが、勘三郎さんとの出会いが椎名林檎さんにとって長く記憶に残るものだったことは、後年の本人の言葉からもうかがえます。
